富山大学薬学部案内2021
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3富山にしかない「3つの融合」が、創造性に富み、時代の先端を歩む富山流「くすりのスペシャリスト」を育みます。伝統から未来へ!「くすりの富山」の薬学教育伝統と最先端の融合「富山の売薬さん」以来300年以上の「くすり」の文化が根付く街富山で最先端の薬学を学びます。医と薬の融合富山医科薬科大学時代から続く我が国随一の医学部と薬学部の強い連携で、生きた薬学を学びます。東洋と西洋の知の融合我が国唯一の和漢医薬学総合研究所との連携で東西医薬学の融合による新しい医療学体系を学びます。富山流くすりのスペシャリスト 富山に薬業が発展したのは、富山藩第2代藩主・前田正甫(まさとし)公が富山の売薬の基を築いたことが始まりです。 「富山市史」(昭和35年)によると、正甫公は天和3年(1683年)に備前岡山の医師・万代常閑から秘伝薬である反魂丹の製法を伝授されました。元禄3年(1690年)に、江戸城内で福島三春の城主・秋田河内守が突然の腹痛に苦しんでいた時に、所持していた反魂丹で救い、その場に居合わせた諸大名がその効き目に驚き、反魂丹の行商を懇請したといいます。これをきっかけに越中富山に反魂丹を中心とした薬業が進行し、富山売薬が発展してきたと伝えられています。富山売薬は、先用後利(先に薬を客に預け、使った分の代金を後でもらう)という独特の商法により、全国に広まりました。また、当時の薬はほとんどが和漢薬であり、その収集・分類や薬用に関する学問は本草学といいます。幕府は日本での和漢薬の生産が少ないので、これの国産化を目指し、奨励しました。富山藩第10代藩主・前田利保(としやす)公は、まれにみる本草学者であり、「本草通串」94巻を著し、この分野の研究において大きな礎を作り上げ、富山の薬業の発展に貢献しました。 明治維新となり諸制度が改革され、医学は和漢医薬からドイツ医学へと変革していきました。明治19年(1886年)の学制大改革によって、東京帝国大学医学部薬学科が誕生したのに応じて、全国的に薬学校設立の動きが盛んとなりました。富山においても、時代の流れにより西洋薬を用いる技術の必要から薬学士の養成が急務として浮上し、薬学校の設立が望まれ、明治27年(1894年)に共立富山薬学校が設立されました。その後、官立富山薬学専門学校、(旧)富山大学薬学部、富山医科薬科大学の設置等を経て、2006年に3大学(富山大学、富山医科薬科大学、高岡短期大学)の再編により現在の富山大学薬学部となりました。薬都・とやま―300年の歴史―富山駅前「売薬さん像」売薬さんがおみやげとして客に配った売薬版画(※2)薬袋「本方反こん丹」(※1)現在の富山大学薬学部※1、※2、および表紙右下の薬袋、預袋の写真は富山市売薬資料館所蔵

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