富山大学附属病院脳神経外科のメンバー(2024年4月)富山大学附属病院脳神経外科は1980年4月14日に診療を開始した。東北大学から赴任した高久晃が初代診療科長に就任した。当時の手術台帳を紐解くと、最初の手術は診療開始2日後の4月16日、小脳の転移性腫瘍摘出術で、執刀は高久、遠藤、甲州、堀江と記録されている。ここから富山大学附属病院脳神経外科の歴史が始まったと言っても過言ではない。しかし、開設当初は大学病院にCTすら配備されていない環境の中、高久一門は大変な苦労を余儀なくされた。1991年発行の「開講十周年記念誌」の冒頭、高久は「臨床例0からの出発で、その後の症例数の伸び悩みもあり、学会活動に関してはしばらくの間耐乏を強いられる事になった。それまでことのほか大活躍を続けてきた面々にとってはまさに幽閉といっても過言ではなく、臥薪嘗胆、切歯扼腕したものである」と記すとともに、その最後には「脳神経外科医たるもの、研究者たるもの、そして男たるもの、論文こそがその紋章である。文字通りの徒手空拳から始まって常にoriginalityを求める苦悩の日々は現在も続いている……この10年間は未開の山林を整地し、畑にし、種をまくまでしか出来なかった。その芽を育て次に収穫の喜びにひたるのがこのturningpoint以後の課題であるというのが苦しい弁解でもある。ある時は意気揚々、鬼の首でも取ったかのように喜んだり、またある時は挫折感に打ちひしがれ眠れない夜もあった」と当時の心情を吐露している。実際、この十周年を境に1990年以降、本教室から秀れた論文が多数発信されており、高久の言葉は決して「弁解」ではなく「予告」に変わったことを歴史は証明している。1999年4月、遠藤俊郎が第2代診療科長に就任した。開設当時、30歳代半ばでの助教授就任から約20年間、常に高久の右腕として医局、診療科の発展において中心的な役割を果たしてきた遠藤は、わが国でいち早く頚動脈内膜剥離術(CEA)を導入して、その普及の旗頭となったことは広く知られた事実である。遠藤は東北大学からトロントのProf.Lougheedのもとに赴いてCEAを学ばれたのち、富山で初めて執刀した時のことを、当科の「遠藤俊郎教授就任・教室20周年記念誌」の中で「富山に来て状況は一変しました…なぜか頚動脈の病変にかなりの数で遭遇することになりました。…日本も広い。東と西では人種が違うとすら思う程でした。…高久先生より『殺すなよ』の一言でCEA施行のお許しをいただき…」と述懐されており、当時の遠藤、そしてボスである高久の新たな挑戦への気迫が伝わってくる。遠藤は、2005年より富山県の4つの二次医療圏の基幹病院に脳神経外科医を再分配して、各医療圏でセンター化を実現した。2012年3月、北海道大学から黒田 敏が第3代診療科長として就任した。黒田は就任早々、デンマークからもやもや病患児のバイパス手術を依頼されて、当院では初めてと言われる海外からの患者の手術を執刀した。2014年から富山県の脳卒中悉皆データベース(TOYSTORE)を行政や医師会とともに立ち上げて、富山県内の脳卒中診療の質の向上に寄与している。また、富山大学附属病院に2018年4月から包括的脳卒中センターを、2022年4月から脳卒中・心臓病等総合支援センターを全国に先駆けて設立して、富山県の脳卒中診療の質の向上を目指している。国内ではAMORE研究、MACINTOSH研究、MUSIC研究などの多施設共同研究を主導するとともに、日本脳卒中の外科学会など、主要な学会を主宰している。国際的には、世界脳神経外科連合(WFNS)で2019-2023年、Education&TrainingCommitteeの委員長を務め、2024年からはNominatingCommitteeの一員として貢献している。これらの活動を通して、2024年10月、日本脳神経外科学会の齊藤眞賞(国際賞)を受賞した。(黒田 敏)123第2章 医学部・附属病院 脳神経外科
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