00000000000000000000000000000000000000000000第2章 医学部・附属病院もしも麻酔科医がいなかったら故・伊藤祐輔 名誉教授からご提供いただいた写真(ご遺族の許可を得て掲載)。今から半世紀前、麻酔科医は外科の中の麻酔係だったことをご存知だろうか。人々が「神様からの贈りもの」と讃えた麻酔の発見と麻酔科学の発展、そしてそれが富山の医療にどのように恩恵をもたらしたか。本稿ではその経緯を概説したい。「手術台にのぼると、屈強な男たちが私を取り囲んだ。白い布が顔の上にかけられる。その布を通してメスがキラリと光るのが見えた。次の瞬間、その忌まわしい金属が私の胸を切り裂いた。叫ぶのをがまんしなくていいと言われたが、そんな気休めは全く必要なかった。それが始まったとたん、私はあらん限りの声で悲鳴を上げ続けたのだから……。」これは19世紀初頭に乳癌手術を受けた患者の手記である。たった余年前、外科。手術は無麻酔で行われていたもし「無痛状態を来す化学物質」があったら、医学に画期的な進歩をもたらすに違いないと考えた人物がいた。世界初の麻酔科医ウィリアム・モートン(1819-1868)である。モートンは、ハーバードの化学者チャールズ・ジャクソン(1805-1880)の助言をもとにエーテル麻酔法を考案し、ハーバード大学の講義室で公開手術に踏み切る。1846年10月16日のことであった。エーテル麻酔は歴史的成功をおさめ、この日はEtherDayと名づけられた。時と場所は変わって1979年の富山。この地に足を踏み入れた8人の麻酔科医がいた(写真)伊藤祐輔教授、久世照五助教授、宮崎久義助教授、中西拓郎講師、佐藤裕次講師、田辺隆一助手、増田明助手、樋口昭子助手である(肩書は当時)。富山に麻酔科学の殿堂を築くのが彼らの目的であった。当時の全身麻酔と言えば、バックを手で揉むマニュアル換気と胸壁聴診器というスタイルが常識であったが、これでは緊急事態に対応できず初動対応が遅れる。「富山の麻酔事故を0にする!」それが8人の麻酔科医の意気込みだった。彼らはいち早く“Toerrishuman”に基づき、フェイルセーフシステムの構築につとめたのは慧眼であった。富山大学附属病院の全9室の手術室には、酸素と笑気の取り間違えを防ぐ笑気カットオフ機構付麻酔器がずらりと配備され、配管ミスを防ぐピきが院内全ての医療配管に採用された。医療ン方式安全を科学的に解析するには症例分析が欠かせない。マークシート型の麻酔症例集計システム(タナックⓇ)を導入し、さまざまな症例分析に活用した。1979年10月17日、満を持して富山大学附属病院手術部において第1例目の手術が行われた。35歳女性の十二指腸穿孔に対する緊急手術であった。麻酔は笑気/酸素/ハロタン吸入による全身麻酔。これを鮮やかな手練れで遂行した麻酔科医は、増田明助手(現・西能病院院長)であった。ちなみに、この年の麻酔科管理症例は175症例であった。時は流れ2024年。麻酔科管理症例は優に4000症例/年を越え、十二分に余裕をもって再整備されたはずの13の手術室は、連日フル稼働してもまだ足らない。ダヴィンチⓇによるロボット手術室や心血管X線撮影装置を組み合わせたハイブリッド手術などの先進的手術に対応すべく、麻酔器やモニター・症例データベースシステムは日就月将の進歩を遂げた。3代目教授高澤知規先生率いる富山大学麻酔科の任務は、手術麻酔に加えて周術期管理・ペインクリニック・集中治療へと拡大しつつある。しかし、どんなにテクノロジーが進歩し、麻酔科医の守備範囲が広がろうとも8人の麻酔科医が富山着任時に誓ったPatientSafetyFirstの志しは失われることなく、今も全医局員の心に生き続けている。(廣田弘毅、髙澤知規)129200 麻酔科
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