医学部50周年
32/268

5.医師会活動 救急についてるかを非常に心配しました。能登半島地震での活動は、1月は避難所の巡回をおこない、2月は篭城した高齢者施設の巡回診療と褥瘡の処置、2月の中旬以降3月末までは、被災地の小規模医療機関の診療支援、看護師支援・派遣を行っておりました(図2)。この写真は1月の初めに、整形外科医のJMATの先生が赴き、避難所で慢性腎不全となり数日経った男性を発見したものです。状態が悪化しており、DMATと連携して総合病院の方に搬送しております。これは門前町の2月の状況です。門前町のこの高齢者施設は籠城しスタッフの方々が必死に患者さんを診ておられました。JMATは褥瘡の処置などに携わりました。2月の中旬以降は珠洲地区の統括JMATとして、珠洲市内の診療所の再開支援や、すでに再開している開業医への診療支援、看護師派遣を行いました。また、マニュアルをつくり、次々来るJMATに対して申し送りを行いました。こういった支援は、これまでの災害ではあまりなかったことですが、医師会が行う支援としては重要であると思いました。能登地震での医療介護の特殊性として、能登北部では被災者や高齢者、要介護者、施設入所者の多くが金沢以南や富山にも避難されておりました。そのため医療機関や介護施設は空洞化し、そこで仕事をされていた職員の方も家族とともに広域避難などをされ、実のところ医療需要は多くはありませんでしたが、介護や看護の分野が非常に手薄で苦労しました。また一方、金沢以南と加賀地区など広域避難のところは、看護師や行政の職員の方々が組織的にしっかり管理されておりました。能登地震での看護チームは東日本のときに比べますとはるかに多くのチームが派遣されており、災害支援ナースやジャパンハート、DCキャット、石川県立大学褥瘡ケアチームなどが活躍されていました。これが能登半島地震における全国からのJMAT派遣状況です。1月初めから立ち上がり、2月の中旬以降徐々に減っています。富山県医師会JMATは3月31日までの派遣をしましたが、隣県として、ある一定程度の責任を果たせたと考えています。次に、初期救急のことについてお話します。医療不信や医療崩壊という言葉、2000年代には非常に多く聞かれました。その発端というのは、1980年ごろの医師数の抑制や医療費抑制政策から始まったと思います。そして2000年代の小泉内閣のときには、社会保障費、年間2200億円ずつ削減と、診療報酬も最大マイナス改定で、この頃非常にマスコミ・警察・検察からの圧力も医療界に対して強いものがございました。これは社会保険旬報という冊子ですが、当時の厚生省の吉村保険局長が、「このまま医療費が増え続ければ国家が潰れるという発想さえでてくる。これは仮に医療費亡国論と称しておこう」と、40年後の現在を予見するようなことを言われました。杏林大学病院割り箸事件、東京女子医大事件、大野病院産科医逮捕事件など多くの事件が起こり、善意の医療であり一般的な水準の医療であっても、結果が悪ければ逮捕や民事訴訟の可能性があり、またマスコミにも非常にセンセーショナルに報道されました。この頃から医療崩壊という言葉がよく聞かれるようになりました。ちょうど2006年、最大マイナス改定と同じ年に出た本ですが、小松秀樹先生が書かれた『医療崩壊-「立ち去り型サボタージュ」とはなにか』、読まれた方も多いかと思いますが、このとき、日本の医療は2つの大きな圧力、1つは医療費抑制、もう1つは過度の安全要求、相反するこの2つの圧力のために非常に労働環境が悪くなり、そして病院から医師が少しずついなくなると書かれております。センセーショナルな報道も手伝いまして、医療訴訟件数は急増しました。しかしながらこの善意の一般的な診療に関しては、1審、2審とも無罪であるという判決が次々に出ました。そのため少し訴訟は落ち着きました18(図2)

元のページ  ../index.html#32

このブックを見る