医学部50周年
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3.人生の転換点4.価値のある科学とは哲学を学べば人間というのがわかるのではないかと思ったのです。実は、こういう本を読んでいるうちに、思弁では人間と何かはわからない、おそらく大脳生理学、あるいは医学の方から攻めればこういった疑問の答えがわかるのではないかと思ったのですが、1970年代当時には、今のような脳科学や神経科学という分野はなく、とてもとても当時の大脳生理学のレベルでは、この疑問には答えることができませんでした。そこで少し疑問を変え、人ではなくて「生命とは何か」ということに取り組んだのです。特に考えたのは分子レベルから生命を理解できるのではないか、と。時代の流れとして分子生物学が勃興している頃でありました。そして大学院に進み、このスライドが博士論文、あるいはその直後の論文いくつか抜けているのですが、NucleicAcidsResearch誌、あるいはJournalofMolecularBiology誌、当時はいずれも分子生物学分野では著名なジャーナルだったのですが、そこに研究成果をいくつか発表しました。そのうちに、どうもこういった研究をやっていても重箱の隅をつついているような感じがありました。というのは、分子生物学ではもうすでに、1953年にワトソンとクリックによるDNA二重らせん構造が発表されていたのです。それは本当に概念的な大変革でありました。分子生物学の研究と言うものは、もう結局全てはその枠内で研究しているに過ぎない、という思いが募っていました。今思うととても僭越で傲慢だったなと思いますが。ちょうどその頃、東京の日本橋に丸善という大きな本屋があるのですが、そこで娘の絵本を探したとき、偶然、「脳の可塑性と記憶」という本に出会いました。実はこの本は、塚原仲晃先生、不幸なことに日本航空のジャンボジェット機に乗り合わせて亡くなられたのですが、彼が書いた本です。その遺稿をまとめた本なのですが、その中に、彼は当時のシナプス研究の世界的な第一人者でもありましたので、こんなことを書いています。「大人の脳でもシナプスというのは、形成される。それはスプラウティングという形で、シナプスは形成される。」それを読んだ時にピンときました。すなわちシナプスを作る、或いはスプラウティングで発芽していくということは、当然それを作る部品となるタンパク質が必要。ということは、タンパク合成が起こるし、場合によっては遺伝子の発現というのが起こっている。つまり、ここに至って分子生物学者である私自身の出番がある。こういったのは得意です。これなら記憶の研究ができるのではないかと思い、いろいろ文献を当たっていましたら、ちょうどその少し前、1986年にエリック・カンデル教授が、こんな総説をNature誌に出しています。“Thelongandtheshortoflong-termmemory”つまり、短期記憶と長期記憶というのはメカニズムが違う、特に長期記憶には遺伝子発現或いはタンパク合成が必要である、これからそういった研究をやっていかなきゃいけない、ということが書かれていました。これはまさしく私ができること或いはやりたいことにぴったりだと思い、カンデル教授、彼は後に2000年にノーベル賞を受賞されているのですが、彼のところにアプリケーションレターを書きました。もちろん私自身は神経科学・脳科学の経験はゼロです。だから、もう一か八かで、採択されないだろうと思っていたのですが、幸いなことに、彼が私の研究プランを非常に興味深いと思ってくださったおかげで、彼の研究室に参画することができました。これは人生の転換期でした。彼の研究室はNatureやScienceにもどんどん論文を出していて、カンデル先生だけでなく、下のフロアには、後にノーベル賞を受賞するリンダ・バックさんやリチャード・アクセル教授もいました。そういう環境の中で研究をやっていたのですが、その人たちは自分とは違って極めて優秀なのだ、という先入観を持っていました。ところが、彼らとずっと一緒に研究をやりながら議論しているうちに、多分考えていることはそれほど違わないということが、実感としてわかって参りました。これは私にとっては得難い経験でした。そんな留学を終えて日本に戻ってきたのですが、そこそこの研究をしてもそれは意味がないだ22

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