富山大学名誉教授(前学長、元附属病院長) 遠藤 俊郎富山医科薬科大学・富山大学医学部50周年おめでとうございます。私は、1979年附属病院開設時に着任し、2019年の退任まで、医学部・附属病院32年・学長8年の計40年を本学で過ごしました。この半世紀で社会は大きく変貌し、我が国の政治・政策転換が相次ぐ中、全国の国立大学・医学部・附属病院も創造と改革の歴史を重ねてきました。特に我が富山大学医学部は、1975年の富山医科薬科大学創設、及び2004年からの国立大学法人化と再編統合において、他大学とは全く異なる状況を経験し、独自の進化と苦難の歴史を重ねてきました。私自身の経験・見聞より、富山医科薬科大学誕生および新富山大学再編統合とその後の動きにつき、その一端を書き留めてみます。〈富山医科薬科大学の誕生〉富山医科薬科大学は、高度成長期の田中角栄内閣における「一県一医大構想」により、当時の無医大県に設置された国立新設医大・医学部17校中の1校として、1975年(昭和50年)に杉谷の地に新設されました。特筆すべきは、本学は他県における単科医科大学とは異なり、当初より薬学部・和漢薬研究所を併せ持つ総合大学であり、世界的にも類をみない「医科薬科大学」として誕生したことでした。新大学の薬学部・和漢薬研究所の設置には、当時の富山大学の看板学部であった「富山大学薬学部」を一旦廃止(廃部)し、その後に「富山医科薬科大学薬学部」を新設するという、荒技の措置が取られたようです。創設期の学内は、苦しさ・歯痒さなど不満のネタには事欠かない日々にも関わらず、スッタフ一同は部門・職種の枠を超え皆が連携、切磋琢磨し、新しい大学・病院を自分たちで作るという気概にあふれていました。講座対抗の野球大会や運動会はいつも大盛り上がりでした。思い出の中でも、1982年春に本学医学部第1回卒業生を大学・教室の新しい仲間として迎えた時の「これで本当に新しい大学が始まる」との思いは、今も強く印象に残っています。〈国立大学法人化と新富山大学の誕生〉その後の約20年、医科薬科大学は東西医薬学の融合という特色を生かしながら実績を重ね、看護学科の設置や大学院体制などの体制整備も進み、その存在は社会的にも確固たるものとなってきました。しかし1990年代バブル崩壊後の社会・経済混乱状況の中、国営組織の民営化・法人化が進められ、国立大学も改革の大きな渦に巻き込まれることとなりました。2004年には「国立大学法人法」が施行され、各大学はそれぞれ独立した「国立大学法人○○大学」となることを余儀なくされました。さらに文科省は、国立大学数の削減と組織のスリム化を企図し、総合大学と医科大学を統合する「1県1国立大学」政策を提起してきました。富山県においては、文科省の強い行政指導のもと、医科薬科大学を核として旧富山大学、高岡短期大学の3大学再編統合計画が進められ、2005年10月には「1法人1大学の新生富山大学:9学部と附属病院・1研究所を有し、学部学生数約8200名の全国有数大型総合大学」が誕生しました。しかし2総合大学と1短期大学の再編統合、特に全国唯一の医薬系総合大学・旧来の文系・理系5学部の総合大学・芸術系短期大学という、理念も教育研究体制も全く異なる3つの大学を1つにという全国国立大学歴史上初の試みは、経験しなければ理解できない無理・難題にあふれておりま36富山医科薬科大学・富山大学医学部50周年への思い
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