医学部50周年
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富山大学名誉教授 (元理事・副学長・医学部長)   鏡森 定信薬の富山では、医大開設の試みが戦後復興期から何回もあった。医師会立の医大を太閤山あたりに設置しようとの計画は私も耳にした。この宿願が、列島改造の流れの中で、富山医薬大として実現した。当時、金大の公衆衛生学の助手であった私は、この新設大学の助教授にリストアップされた。私の生家から遠くない建設予定地は、文化遺産が眠るうっそうとした竹林で、地元では、地下の水位が下がるとの不安から大学誘致に慎重な意見もあった。調査の結果、常願寺川からふんだんに伏流入が流れ込んでおりその心配はないとのことで地元は安堵した。薬学と医学が統合した大学を新設しようというアイデアは、富大の源泉で全国的に有名な薬学系を引き抜かれる五福キャンパスの大方の反対に遭遇し、薬学系を優先すべく薬科医科大の名称すら一時出たことがある。教員公募はなく、金大、新潟大、千葉大を主要校として任命された。任命過程は当然公開されることもなく、いくつか教授のポストを巡っての紛糾もあった。着任した後、出身大学間で大学運営を巡ってぎくしゃくすることもしばらく経験した。そんないきさつもあって、初代学長は金大出身者が任命されたが、2代目学長は公募で主要3大学以外の東大から迎えた。「東大でやれないような教育・研究をすすめたい。」の佐々学長の主張には大変共鳴した。イタイイタイ病の資料館的なものを図書館に併設しようとの事務方の意見は実現しなかった。新設医学部は、単科の医大を原則とし、おおむね交通の不便な郊外設置となった。医学生が学生運動の核になることが多いこともその理由の一つだとのうわさがあった。また、社会医学系は衛生学と公衆衛生学を統合して一講座が原則であったが、富山では国際的に唱導されていたCommunityHealthの講座が新設医大では唯一開設され、私は助教授として1980年(昭和55年)着任した。保健医学の2代目教授となった私は、新入生の医学概論に社会福祉施設での介護体験実習を組み込んだ。介護が大きな社会問題となりつつあったが介護保険制度はいまだない時期、どこの医学部でもまだやっていなかったこともあり、保護者からは「医学生に介護体験とは何事か」の抗議もあった。また、この実習を機に当時新設が続いていた人間科学の分野に転身した医学生も経験した。そんなことから教授会ではこの実習を高学年に回した方がよいとの意見も出たが、内容を検討し当時の医学部長の理解と支持もあり進めることができた。教授就任後間もなく、新設医大の山形、富山、佐賀に看護学科を新設するとの決定が急転直下文科省から来た。2校がまず決まりその後に富山が入った。これ以前から片山医学部長の熱意や坂倉県看護協会長の看護大の設置要望の積極的な動きもあり、その機運が高まっていたのがマッチした。私はすでにこの担当になっており、厳しい事前審査を覚悟した。しかし、国が急ぐ事業であったためか関係書類やカリキュラムについては思ったほど苦労しなかったが、教員集めに大変苦労した。新設時のコメデカル養成学部の開設計画はそれ以来冬眠である。その後県立看護大開設の機運が盛り上がり、当時の石井知事も動かれたが、時期尚早となり医薬大看護の定員増加となった。これも担当したが、大学からの申請では難渋大だが、県が地域枠をあげて推進したのでスムーズに決着した。この50年間の一大イベント、3大学統合時に私は医学科長だった。政治がらみで進んだこともあり、杉谷キャンパスでは大方が無関心だったと思う。高岡の芸術文化短大の蝋山学長は、統廃合の対象大学でもあり唯一積極的だった。しかし、五福キャンパスは学長はじめ消極的で私には反対のように思えた。「本当に合併してもいいのか?」と文科省の担当者に念を押された故倉知正佳・医学部長は、この合併の長点を生かすべく大変苦労された。開設50年、全国的に活躍する多くの卒業生をみて満足し微笑んでおられることを願う。40富大医学部─その50年の外伝─

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