医学部50周年
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富山大学名誉教授 (前医学部長)   足立 雄一医学部創立50周年、おめでとうございます。一期生の一人として心からお祝い申し上げます。私は富山大学医学部の前身である富山医科薬科大学医学部の一期生として入学しました。私が高校に入学した時には県内に医学部を有する大学はなく、医学部入学を目指す者としては他県の大学を探す必要がありましたが、1973年に医大の無い県を解消することを目的に「一県一医大構想」が閣議決定されると、富山県でも1976年春に一期生を迎えるべく前年10月に富山医科薬科大学が開設されることとなりました。「医学部が新設された年には、地元出身者が優先的に入学できる」という今思えば明らかなエセ情報がまことしやかに受験生の間で広まっており、当時高校三年生であった私はその流れに便乗することとしました。結果的には、富山県出身者は30名以上いたと思いますが、出身校のトップは某受験予備校であったと記憶しています。開学当初は大学としての校舎も無く、当時の教職員の皆さんが一期生を受け入れるための準備に大変なご苦労をされたと聞いています。最初の入学試験は県立富山中部高校で、そして初の入学式は市内のビルの会議室で行われました。入学したとは言っても最初の1年間は新校舎が建設途中でしたので、講義や実習は入学試験が行われたのと同じ高校の木造の旧校舎を間借りして行われました。その頃は、学生だけでなく教職員にとっても全てが初めてのことばかりでしたので、何をするにも手探りでなんとか乗り越えるという感じでしたが、少人数であったせいもあって学生と教職員の距離がとても近く、いろいろなことをよく話し合ったと記憶しています。翌年には現在の杉谷キャンパスに講義棟や図書館などが完成し、3月中に学生も手伝って引っ越しが行われました。小高い山を切り開いてできたキャンパスですので、授業中にはよく雉の鳴く声が聞こえ、またキャンパスのあちこちに「マムシ、注意!」の看板が立てられていました。4年目(1979年)の秋には一期生の臨床実習に間に合うように附属病院が完成してようやく医科大学としての最小限の形が整い、1982年3月に私を含めて最初の卒業生が巣立ちました。私は卒業後直ちに母校の小児科学講座に入局しました。当時は研修医も含めて10名余りしかいない中で臨床・教育・研究をしなくてはならず、連日朝から深夜まで働き詰めという状況でしたが、医局は「新しい大学を作る」というチャレンジ精神のもと活気に溢れていました。その後も毎年3~4名の後輩が入局してくれたこともあって、少しずつ関連病院も増え、臨床ならびに研究実績も上げられるようになり、今では医局員は150名近くの大所帯となりました。私は、途中に関連病院への出向や国外留学などがありましたが、大学にずっと残って2023年3月で定年退職しました。このように一期生が大学で働き終えたということは、今風の言葉で言えば、本学医学部は一周回って次のステージに進んだことになると思います。昨今の止まらない少子化や年齢構成の変化、そして間近に迫った人口減少など、医療を取り巻く環境は今後急速に変化していくと予想されます。そのような激動の時期にあって本学医学部がさらに発展するためには、建学の理念である「里仁為美」を今一度見つめ直し、全国さらには国外から優秀な学生を集めて、仁に篤く多様な能力を持つ医療人を育て上げることに今まで以上に注力することが肝要かと思います。今振り返ると、この50年はあっという間の出来事のようでもあり、実に様々なことがあったようにも思います。その間、多くの恩師、先輩、同級生、そして後輩や仲間に支えられてきました。本学医学部関係者の皆さんにお礼を申し上げるとともに、今後の益々のご発展をお祈り申し上げます。44富山大学医学部創立50周年にあたり

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