未来を拓く:おもしろい授業・おもしろい研究

シベリアで未知の言語を掘り起こす

掲載内容は当時のものです。

コリャーク語に出会う

私がこの言語を研究してみようと思ったのは、今からかれこれ30年近く前です。数ある言語の中からコリャーク語を選んだ理由は、なによりも、固有の文字を持たず、したがって音声を聞き取るところから始め、一からその輪郭を描いていかなければならないような未知の言語に取り組みたかったからなのです。なかでも、旧大陸にありながら新大陸の言語ともよく似た特徴を持つと言われているコリャーク語の出自や成り立ちに、私は好奇心をおおいにそそられました。

こうして私は、日本から飛行機やらプロペラ機、ボートやトナカイ橇を乗り継いで何日もかけなければたどり着けないツンドラの僻地に、コリャーク語を求めて通い続けることになりました。

ツンドラの移動手段はトナカイそり

なぜ、フィールドワークをするのか?

日本のように便利な国で暮らしながら、なにを好きこのんでシベリアになど出かけて行くのだろうかと思う方もいるかもしれません。確かに、今はインターネットに繋ぎさえすれば、いながらにして世界中の言語についての情報を入手することもできます。しかし、ことばの研究は、「百聞は一見にしかず」ならぬ、「百見は一聞にしかず」なのです。一筋縄ではいかない生きた言語に耳を傾け、その一見、混沌とした摩訶不思議の中からある美しき法則性を探り出していくことこそ、百の書物を渉猟するよりも、言語学にとっては本質的なことです。

近年、言語学はその裾野も飛躍的に広がり、多くの下位分野が現われ、分業化も進んできました。ことばの音声を専門とする人、文法を専門とする人、意味を専門とする人など。もちろん、それぞれの分野は専門とするのに足るだけの複雑さや豊かさを持っています。ただ、私自身は言語研究というものを、もう少し違う観点から見てきたように思います。ことばというのは、音声、文法、意味など複数のレベルが複雑かつ精緻に絡み合った総体です。したがって、ある言語の全体像を理解しようとするならば、それらのどのレベルに対してもバランスの取れた目配りが不可欠だと思うのです。その意味で、固有の文字を持たず、なおかつ、研究があまりおこなわれていないコリャーク語は、私にとっては理想的な言語だったのです。

伝統的な手製ビーズ飾りを見せるコリャーク女性

これからの抱負は?

かれこれ30年近くコリャーク語に取り組んできて、改めて思うことは、私がこれまで知りえたのは、まだまだコリャーク語という氷山の一角にすぎないということです。そしてまた、不思議に充ち満ちたひとつの素晴らしい言語が、誰にも知られることなく朽ち果ててしまうなんて、なんと残念なことだろうと思うのです。ある言語学者によれば、ひとつの言語を研究し尽くすには、100年はかかるそうです。それほど言語というのは、豊かな存在であり、また人の安易な一般化を拒む複雑怪奇な存在でもあるのです。話し手の数が多い日本語のような言語であろうと、逆に少ないコリャーク語のような言語であろうと、そのことに違いはありません。

どう逆立ちしてもコリャーク語を研究し尽くすことはかないませんが、これまでの成果とこれからの成果を統合した『コリャーク語文法』を完成させること、それが目下、私の最大にして最難関の目標です。

調査地のトナカイ遊牧キャンプにて

呉人 惠 先生